新原 豊(にいはら・ゆたか)
Vol.6 生命を託された時間
前回のコラムで述べましたが、私はこの競争率の高い研究室に入れたことが嬉(うれ)しくて、ただコーヒーを飲むためだけでも、研究室に通いました。
もともと、本を読んで勉強するのが苦手で、むしろ、手を使って体に覚えさせていくことが得意だった私は、ビーカーや試験管といった実験器具を洗浄したり、機械が誤作動を起こさないように細かいメンテナンスをしたりといった、他の人がちょっと嫌がるような雑用も楽しくてしかたがなかったのです。
検査のためのスライドのつくり方なんかも、検査技師の方の後ろに張りついて教えてもらいました。普通なら技師の方におまかせして何も問題ないのですが、私は何度も何度も練習して、自分で実験に使えるスライドをつくれるようになりました。技師の人も、医師の私が興味をもったことを喜んでくれて、いろいろ教えてくれました。
こうした経験が役に立ったのか、細々とした作業を熟知している私は、研究室で重宝され、二年の準採用期間が過ぎても契約が破棄されることはありませんでした。
田中先生の下で鍛えられたことのある仲間は、みんなこれに驚いて、私のことを厳しい訓練に耐えたものへの敬意を込めて「ジェダイ」と呼んでくれたのです。正直ちょっと照れましたが、嬉しかったです。
ジェダイとは、ハリウッド映画『スター・ウォーズ』に登場する戦士のことですが、田中先生は、ジェダイの最強の指導者である「ヨーダ」にどことなく似ていたのです。
その後、この研究室で鎌形赤血球症の新薬の開発が本格的になりました。そのプロセスについては後ほど、詳しくお話しするとして、この新薬発見には、不治の病が緩和できるということ以上に大事なメッセージがありました。
それは、私たちが薬として「発見」した物質が、実は私たちの体内でもともと当たり前につくりつづけられていた物質だったということです。
このことは生命を理解するためにものすごく大切な事実だと私は思いました。つまり、私たちが生きるために必要な仕組みは、体内外にすべて用意されている。しかもできるだけ快適に幸せに生きられるようになっている。その証拠であると思ったのです。
これは、医師の道を歩く私の強力な支えにもなりました。
すべての生命は幸せを望まれて生まれている。だからどんなことがあっても「生命を託された時間を生きる」という可能性が絶たれてはいけないのだと確信したのです。
この道を歩きつづけなさいと、何か大きな存在からの担保をもらったような気持ちでした。将来ははっきりとは見えませんでしたが、保証が与えられたような気持ちがしたのです。