新原 豊(にいはら・ゆたか)
Vol.5 ライフワークとの出合い
腫瘍内科に入るときに、私は血液科も同時にすすめられました。
腫瘍内科と血液科両方を受講すると、通常は四年かかるのですが、当時、三年でふたつの科を修了することができるプログラムが始まったところだったのです。いまならその血液科を含めたプログラムに空きがあるというので、私のところに声がかかったというわけでした。
ですので、私はたまたま血液科にも所属したのですが、これが運命の分かれ道でした。ここで私は「鎌形赤血球症」に出合うことになったのです。
最初は血液のほうには関心がなくて、ただ何となく在籍していたのですが、鎌形赤血球症の患者さんの壮絶な痛みに衝撃を受けた私は、まだあまり研究が進んでいないこの病気の治療のために、自分の力を尽くしたいと思うようになりました。しかし、研修期間を終えても、血液の研究室はものすごく倍率が高くて、ポストがなかなか空かないのです。
ところが、ここでまた不思議な幸運が訪れました。
血液の研究室の助教授だった人が、急に辞めてしまったのです。すると、血液の分野で古くからご活躍されている日系二世の田中耕一教授という方から、ピンチヒッターとして私にオファーがありました。
あくまでピンチヒッターなので、契約は二年。もし、代わりの助教授が見つかったら、文句なしにその座を明け渡すという予備的な状況でした。がんの研究室であれば、半永久的なポストも約束されていたのですが、私は鎌形赤血球症の研究がやりたかったので、その話を受けました。
この田中教授は、たいへん優秀で熱心な先生でした。指導が厳しいことでも有名で、私たち研修医は、田中先生から出される課題をこなすために、徹夜することもしばしば。夜から始まる講義に出たあとに莫大(ばく だい)な課題をこなし、深夜に先生にレポートを提出することが多かったのですが、翌朝にはもう先生からコメントが返ってくるのです。
「先生はいったいいつ寝ているのだろう」と何度も思いました。
上級研修での私は、本当に目立たない存在だったため、田中先生が声をかけてくださったのはなぜだろうとずっと不思議でした。これはやはり天の導きであったのだといまは確信しております。