新原 豊(にいはら・ゆたか)
Vol.15 与えつづけると、得るための心配がなくなる2
前回のコラムでお話ししましたが、必要なときに必要なお金がやってくるという経験を、若いころからくり返してきたので、私は、お金の心配というものをあまりしなくなりました。賢く与えることを続けていれば、得るための心配をしなくてすむようになるのです。
ただし、与えるときに気をつけなくてはいけないことがあります。ひとつは、これも聖書に書かれていることなのですが「右手のすることを左手に教えてはいけない」ということ。
つまり、善行というものは自分自身にすら意識できないほどさりげなく、目立たないように行うべきで、けっしてこれみよがしに、誇らしげに行わないことです。また、自分がしたからといって、人に押しつけてもいけません。
天国と地獄についてのこんな話があります。天国と地獄はどちらにも大きなテーブルがあって、その上にはごちそうがこれでもかと並んでいる。でも、それを食べるためには、長さ二メートルもある巨大なスプーンを使わなければならない。
地獄では自分だけ食べようとするから、長すぎるスプーンが障害になって、かえってなかなか食べられない。天国ではそのスプーンでまず人に食べさせてやろうとするから、みんながごちそうを食べられて、だれもが幸福である。
スプーンが箸(はし)や曲がらない腕に変わったりしていますが、この寓話(ぐう わ)は万国共通のものらしく、世界中で耳にします。それだけ、そこに含まれた「与える幸せ、むさぼる不幸」の教訓が的を射ていることの証拠だと思います。
世の中には、貧しさに世を呪う人もいれば、大金持ちでありながらちっとも幸せそうでない人もいます。そうかと思うと、豊かな資産に見合う豊かな心をもつ人もいるし、貧しくても満ち足りている人がいます。
こうした人のあり方を決めるものが何かといえば、結局「分け与える」心のあるなしだと思うのです。お金があろうがなかろうが、満ち足りている人は他人の幸せのために何かしら与えている人だと思います。
私たちは満足や幸福、生きがいや希望の実現のためには「得る」ことが必須(ひっ す)条件だと考えて、いつも何かを得るべく努力を重ねていますが、その先を急ぐ足をいったん止めて、「むさぼれば目減りし、与えれば増える」という、豊かさの中に潜む逆説について吟味してみることもムダではないはずです。