新原 豊(にいはら・ゆたか)
Vol.13 与えることは、希望になる2
ときおり、死の床に寝たきりになった患者さんから、「先生、私という存在は何なのでしょう?」と問われることがあります。
「指一本自由に動かすこともできない。何もできないまま、ただ死を待つだけ。こんな私はいったい何なのでしょう。こんな生にどのような意味があるのでしょう」
死を前にした人の心や言葉は哲学的な色合いを帯びます。その哲学的問いに、いまのところは健康で、まだ生の側に属している私が十分に答えることはできません。
けれど、患者さんの心からの問いを無視したり黙殺することはできません。そこで私はこのように答えます。
「あなたにも与えられるものがあることをご存じですか?」
そして、周囲の人に心を分け与えて亡くなっていった人のことや、四肢の麻痺(ま ひ)を患いながら、絵を描(か)いたり、詩を書いたりして、たくさんの人を励ました人のことを例にあげて話します。
「でも、私には絵も詩も書けません。この世に残すほどの豊かな心もありません」
「いいえ、あなたが生きて呼吸をしているだけで嬉(うれ)しいという人、安心できるという人が必ずいるはずですよ」
そのような会話がどれほど患者さんの慰めや励ましになっているかはわかりませんが、どんな人も何かを与えることはできます。病気で少ししか与えられない人だって、大切なものをちゃんと与えられるのです。
たとえ、残したものが「ありがとう」というひと言だけだったとしても、それは残された人の希望となり、安らぎとなるかもしれません。
「死の床にありながら周囲を気づかうなんて、強い人だからこそできることだ」という意見もあるかもしれません。でも、前回ご紹介した周囲の人に心を分けて亡くなられた女性は、本当に病気になるまえから立派で強い人間だったのでしょうか。私にはそうは思えません。最初から強い人などいないと思うのです。
多くの人は自分が助からない病気だと知ったとき、絶望感にうちのめされ、うろたえ、運命を呪(のろ)います。けれども、そのような負の思いも、実はあまり長続きするものではありません。
やはり多くの人は時がたつにつれ、しだいに病気を受け止め、苦悩と向き合い、運命を受け入れていきます。そして、その過程が人を思慮深くし、その人間性も錬磨してくれます。
「私もだれかに何かを与えられるかもしれない」という自覚は、マイナスの自分を受け入れ、揺るぎない希望や安らぎを生むことにつながると思うのです。